「エレファント・マン 作品生誕25周年ニューマスター版 [DVD]」のカスタマーレビュー
人間なんだ
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顔は醜いが心は純粋無垢な青年のエレファントマン 見世物にされたり鞭打ちなどにされて
人間として見てもらったことの無い男、愛に飢えていたとき一人の医師がエレファントマンは
人間だと言って認めさせていく この映画エレファントマンが母の写真を見て「愛されたかったのに
さぞかし失望したでしょうという」シーンで涙しました 顔が醜いというだけで何故批判され
ないといけないのか この青年の漏らす一つ一つの声が胸をうち、とても感動してしまいます
最後にこの青年は舞台(芸術)を知って 皆がこっちに拍手をしこの幸せのまま死んでも良いと
思う エレファントマンが愛されるたびに涙が落ち、嬉しい気持ちとなって心が高揚します
これは僕にとって一生忘れないであろう 名作です。
実際はどうだったのだろう?
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エレファントマンことジョセフ・メリックの異様な風体は、ジョニー・デップ主演の映画『フロムヘル』でも観ることができる。『フロムヘル』は切り裂きジャックを扱ったサスペンスであったが、実は“メリックこそ切り裂きジャックであった”という珍説もこの世にはあるのだそうだ。
さて本作『エレファント・マン』の中で、メリックは無理矢理に見世物小屋で働かされていたことになっている。
しかし史実は違うらしい。勿論ほかに仕事がなかったからという理由もあるだろうが、彼は自ら進んで見世物小屋に職を求め、自活可能な収入と興行主からの寛大な扱いを受けていたという。
つまり彼は立派に己の力で“生きて”いたのである。それが病院に引き取られて、彼は“生かされる”ことになる。ひょっとしたら、こちらの方が苦痛だったのではないか。自分が他人の善意で養われる身の上になった時、誰もがそれを喜ぶだろうか。
そんな史実を知ってから、私のこの映画の安直な感動作ぶりに嫌悪を覚えた。
鏡
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今見終えた。まだ胸がドキドキする。このドキドキは興奮や怒りによるものではない。このドキドキは「恐怖」によるものだ。ジョンが入院してすぐの頃、若い看護師がジョンを見て悲鳴をあげた。その場面を見て思ったのはジョンは人の心を映す「鏡」ではないか?ということだった。陳腐な例えだが今の自分の心内を考えるとそう思う。確かにジョンの風貌は奇怪だ。しかしその人柄はまさに好青年。それを知りながらも恐怖でドキドキするのはそこに自分の醜悪さを見たからかも知れない。ジョンもいう「人は理解できないものを恐れる」と…ただ純粋にその本質を見れずに見た目に恐怖する自分。人を観ることの難しさをまざまざと思い知る映画でした。
人間として
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人間の純粋な面と醜い面が如実に描かれた作品。
実話を元にしている。
ジョンメリックと自分が重なる。
私自身顔や特異な身体的状況により、普通に生活していても人々の好奇の目にさらされ笑われ、しかも「見世物小屋」的な仕事に従事しているからだ。
だからこそ、この話に対する思い入れは人並みではないと自負している。
ジョンの生きてきた人生はすさまじい。
しかしこれだけのことがありながらジョンの心はとても純粋で美しい。
普通なら心がねじれて歪んでしまってもおかしくないほどだ。
どうしたら彼のように純粋無垢な人間でいられるのだろうか?
そう、彼は人間なのである。
『僕は動物じゃない!人間だ!』
泣きながら絶叫するジョン。
これほど心に響いたシーンはない。
ジョンは最後「必要とされる人間」として人生を送れたと思う。
それは外見の醜美にかかわらない、彼の人間性があったからこそなのだ。
他人に必要とされることほど、人間として幸せなことはないのではなかろうか。
「顔」にコンプレックスを抱く、全ての人へ。
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「自分の顔の造りに自信が持てなくて、街行く人の視線が怖い」。
あるいは「実際に、物笑いの種にされた過去がある」。
そんな経験に苦しめられながら生きてきた人、多いのではないだろうか。
恥を忍んで告白させて頂くと、私も実際にそうだった。常に「被害者」の側にいた。
だからこそ「エレファントマン」には惹かれた。恐らく、彼の苦悩に私自身を重ねる為に。
しかしそんな薄っぺらい自慰的な意図は、初っ端からリンチ監督の悪魔的な演出によって否定された。
当の象男が、なかなか顔を見せないのだ。断片的には映るものの、一向に顔を視認できない。やがて私は、その姿を一目捉えようと躍起になっていた。モニターには、不純な好奇に目を輝かせた男の姿が反射して映っていた…。そう、私を苦しめ続けた好奇の視線は、逆らい難い無意識として、およそ全ての文化人に備わっているものなのだ。その事実は「純粋に象男を応援したくて」視聴に至った人にも重くのしかかることだろう。「自身も醜悪な好奇の目を向けている観客の一人に過ぎないのではないか」と。
病院に引き取られることで、象男は一応の不幸を脱出する。
しかし象男に、安息は決して訪れない。一人の人間としての尊厳を掴もうとしても、醜悪な野次馬たちによって何度でもどん底へと突き落とされる。原因は分かりきっている。その「顔」だ。しかし、どうしようもないではないか。生まれ持った「顔」と共に生きる限り、それがもたらす不幸はいつまでも続くことだろう。その葛藤の末、象男が選択した道が<死>なのだとしたら、それはあまりにも悲しすぎる。
それでもひとつ救いがあるとすれば、象男の人間性に触れた全ての人が、ほぼ例外なく彼の味方になったということだろう。もちろん、そこには(前半では怪物に対する好奇の視線しか向けていなかった)私たち視聴者も含まれる。もっとも、それは救いと呼ぶにはあまりにもか細いものではあるかもしれないのだが…。
「僕は象じゃない!」
「僕は動物じゃない!」
「僕は人間だ!」
「僕は人間なんだ!」
その台詞は「顔」で差別されてきた全ての人々の苦しみを代弁する、心の奥底からの悲痛なる叫びとして響いた。涙が止まらなかった。