イギリスでの講演を含めた演説、新聞の寄稿、書籍の序文などからなるアンソロジーである。1943年刊行、対戦突入前夜の日々キナ臭くなっていく時代の、一禅者(大拙氏)の思索である。氏、当時72歳、95歳が永眠だからまだまだ若い(笑)。
「われわれが今日自己の周囲のあらゆる面で目撃している、このほとんど絶望ともいうべき事態から、いかにしたら立ち上がることができるのか。最も簡単な方法は、われわれが自己の無明に気が付くと共に、それによって業の足枷を打ち破ることである。」(「無明と世界友好」)
本書に収められたいずれにも、このテーマが通低している。テーマの背後には大いなる肯定がある。仏教の信仰に裏打ちされた肯定である。世界や人間や社会には否定面が必ずある、しかし肯定面もみないといけない。何も戦争が間近に迫っているからというのではなく、氏の悟達の眼差しはもっと透徹していて、また透徹しているからこそ、時代を越えて現代にも通じる思索が可能だったのだ。氏は科学を否定しない。科学と宗教は相携わって進むべきだとは言うもののテクノロジーへの批判はある。大地とは身体そのものだという(「大地と宗教」)。機械文明によって破壊された大地をアスファルトとビル群が覆うとき、宗教は衰微の一途を辿るほかない。一方で科学は、ミクロ・マクロサイズで身体意識を変容させた結果身体は宇宙そのものとなる(「人間性の半面」)。なるほど、現今のITやネットはさらに身体を大地から引き離すであろうし、その行き着く果てにはバーチャル化された大地と大地を失った、空疎で不安に晒された身体はいったいいかなる宗教を見出していくのだろうか?
「科学は客観的宗教であり、宗教は主観的科学である」(「禅堂の思い出」の中の日露戦争で捕虜となって処刑された友人からの最後の手紙の一文)という言葉も含蓄深いものがある。そのほか枚挙に暇がないくらい示唆的な言葉が溢れている。6、70年前の本だけれど、今も心に響くものがある。

時代に偏しない超越した眼差しに感銘